夏休みの教室で生まれた不思議な提案
夏休みのある日のことです。
授業が始まる少し前、教室に来た中学生のそうた君(仮名)が、私の顔を見るなり、突然こんなことを聞いてきました。
そうた「先生って、この塾に住んでるの?」
私「……住んでないよ。どうして?」
そうた「だって、いつ来ても先生いるじゃん」
なるほど。
そうた君が来る時間には、私はすでに教室にいます。
授業が終わって、そうた君が帰るときにも、私は教室に残っています。
そうた君から見れば、
来たときからいる。
帰るときにもいる。
ということは、ここに住んでいる。
そう考えても、不思議ではないのかもしれません。
私「先生にも家はあります」
そうた「本当に?」
私「どうして、ちょっと疑ってるの?」
そうた「だって、いつ帰ってるの?」
私「みんなが帰って、片づけや次の日の準備が終わってからだよ」
そうた「じゃあ、先生って、みんなが来る前から仕事して、みんなが帰ったあとも仕事してるの?」
私「そういう日が多いかな」
そうた君は、少し考え込んでいました。
どうやら、塾に住んでいる疑惑について、頭の中でもう一度整理しているようです。
しばらくして、そうた君が聞きました。
そうた「先生、僕たちの宿題を見るのも仕事?」
私「もちろん。みんながどこまでできているか、間違えたところはないか、ちゃんと見ています」
そうた「人数分見るの、大変じゃない?」
私「まあ、一人分だけではないからね」
すると、そうた君の顔が少し明るくなりました。
何か、とてもよいことを思いついたような顔です。
そうた「じゃあ先生、僕、先生の仕事を減らしてあげるよ」
私「おっ、何を手伝ってくれるの?」
そうた「僕が宿題をやってこなければ、先生が見る宿題、一人分減るでしょう?」
私「……うん?」
そうた「僕は宿題をしなくていい。先生は仕事が減る」
そこで一度言葉を切り、得意そうに結論を言いました。
そうた「ほら。僕も先生も助かるじゃん」
一瞬、妙に納得しそうになりました。
たしかに、そうた君が宿題をやらなければ、私が丸をつける宿題は一人分減ります。
そうた君も、家で宿題をする時間がなくなります。
本人の説明だけを聞けば、二人とも得をしているように聞こえます。
私「ずいぶん自分に都合のいい人助けだね」
そうた「先生のためなんだけどなあ」
私「先生のためを思ってくれる気持ちは、ありがたいよ」
そうた「じゃあ、今日は宿題なし?」
私「その優しさは、宿題をきちんと終わらせる方に使ってください」
そうた「やっぱりダメかあ」
心から残念そうな顔をしていました。
もっともらしく聞こえる理由を一生懸命考えたようですが、残念ながら、この提案は採用できません。
ただ、「先生の仕事を減らしてあげる」という発想そのものは、ほんの少しだけうれしいものでした。
宿題をやりたくない気持ちが、かなり混ざっていたとは思いますが。
授業が始まると、そうた君はいつものように問題に取り組みました。
帰る前には、こちらが何も言わなくても、次の宿題をきちんと確認していました。
私「先生の仕事を減らす話は、どうなったの?」
そうた「今日は仕方ないから、やってきてあげる」
私「それは、どうもありがとう」
今日も先生は、塾には住んでいないと説明しながら、教室で子どもたちを待っています。
そして今日も、「先生のために宿題を減らしました」という優しい提案は、受け付けていません。
それでも、子どもたちが教室で見せてくれる少し不思議な優しさには、毎日こっそり楽しませてもらっています。
※生徒名は仮名です。

