ある男の子が、少しうつむきながら教室に入ってきました。
ここでは、仮に佐藤と呼ぶことにします。
最初のころ、佐藤はよくこう言っていました。
「先生、数学、ほんと無理です」
「どのへんが?」
「全部です」
「全部か。ずいぶん大きく出たな」
そう言うと、佐藤は少しだけ笑いました。
でも、その表情には自信がありませんでした。
計算も不安定。
関数になると手が止まる。
証明になると、もう何を書けばいいのかわからない。
ただ、私が一番気になったのは、点数そのものではありませんでした。
問題を見た瞬間に、
「たぶん無理です」
と言ってしまうことでした。
まだ解いていない。
まだ手も動かしていない。
でも、本人の中では、もう失敗することが決まっている。
勉強が苦手な子には、こういうことがあります。
できないから自信がない。
自信がないから手が止まる。
手が止まるから、さらにできなくなる。
そのくり返しです。
だから、最初に必要だったのは、難しい問題をどんどん解かせることではありませんでした。
まずは、
「ここまではできた」
「昨日より一問できた」
「もう一回やったらできた」
そう思える経験を積ませることでした。
「今日はこれだけでいい」
ある日、佐藤に数問だけ問題を出しました。
「これだけ頑張れ」
「え、これだけですか?」
「そう。今日はこれを完璧にする」
「少なくないですか?」
「今の君に必要なのは、たくさん解くことじゃない。できるパターンを増やすこと」
そう言うと、佐藤は黙って問題に向かいました。
もちろん、最初は間違えました。
でも、そこで終わりにはしません。
どこで間違えたのかを見る。
もう一度やる。
また間違えたら、そこだけ直す。
もう一度やる。
同じ問題を、何度も解き直しました。
しばらくして、佐藤が言いました。
「先生、これ、今ならできます」
「じゃあ、もう一回やってみよう」
「またですか?」
「まただよ。できるっていうのは、もう一回やってもできることだから」
少し不満そうな顔をしながらも、佐藤はもう一度解きました。
そして、今度は正解しました。
「ほら、できたじゃん」
佐藤は、小さく笑いました。
本当に小さな笑顔でした。
でも、私はその顔を見て、少し安心しました。
この子は変われるかもしれない。
そう思いました。
ノートが変わり始めた
それから、佐藤には一つだけ約束をしてもらいました。
できなかった問題を、そのままにしないこと。特に指定した問題は。
新しい問題をどんどん進めるよりも、まずは間違えた問題を直す。
わからなかった問題を、もう一度自分で解けるようにする。
それを続けました。
最初のノートは、赤い直しだらけでした。
正解よりも、間違いの方が目立っていました。
でも、少しずつ変わっていきました。
途中式が残るようになる。
同じミスが減る。
前に間違えた問題を、自分で見返すようになる。
ある日、佐藤が問題を解いている途中で、ふっと言いました。
「先生、これ前に間違えたやつですよね」
私は思わず顔を上げました。
「お、気づいた?」
「はい。前はここで変な式を作りました」
「今回は?」
「たぶん、最初にこっちを出せばいいんですよね」
そう言って、佐藤は手を動かしました。
そして、正解しました。
その瞬間、私はかなりうれしくなりました。
点数が一気に上がったわけではありません。
難しい問題が急に全部できるようになったわけでもありません。
でも、これは大きな変化です。
前なら、問題を見た瞬間に「無理です」と言っていた子が、
今は、
「これは前に間違えた問題だ」
「今回はここに気をつければいい」
と考えている。
勉強に向かう姿勢が、変わり始めていました。
夏のころ、少し顔つきが変わった
佐藤が特に変わり始めたのは、夏のころだったと思います。
夏は、学校の授業が一度止まります。
その分、今まであいまいにしてきたところに戻る時間ができます。
もちろん、楽な時期ではありません。
暑いし、長いし、気持ちもだらけやすい。
でも、佐藤にとっては、その夏が大きかったのだと思います。
ある日、佐藤がいつもより少し早く教室に来ました。
「先生、これ見てください」
そう言って、ノートを開きました。
そこには、前に何度も間違えた問題が、もう一度解き直してありました。
途中式も残っていました。
前に比べると、ずいぶん丁寧に書いてありました。
私は少し驚いて聞きました。
「これ、家でやってきたの?」
「はい」
「ひとりで?」
「はい。昨日、もう一回やってみたら、できたんです」
そう言う佐藤の顔は、少し得意そうでした。
でも、大げさに喜ぶ感じではありません。
少し照れながら、ぽつりと言いました。
「ママに見せたら、すごいねって言われました」
「よかったじゃん」
そう言うと、佐藤はノートを見ながら、もう一言つけ加えました。
「たぶん、俺が数学のことでほめられたの、久しぶりです」
その言葉を聞いたとき、私は少し胸が詰まりました。
この子は、数学ができなかっただけではない。
数学のことで、ずっと自信をなくしていたのだと思いました。
できない。
間違える。
怒られる。
比べられる。
また嫌になる。
そのくり返しの中で、本人も親御さんも、きっと苦しかったのだと思います。
だからこそ、たった一問でも、
自分で解き直して、
家でできて、
お母さんにほめられた。
それは、佐藤にとって小さなことではなかったのだと思います。
私は言いました。
「それ、ちゃんと覚えておけよ」
「何をですか?」
「できたことも、ほめられたことも」
佐藤は少し笑って、
「はい」
と言いました。
このあたりから、佐藤の言葉が少しずつ変わってきました。
「全部無理です」
ではなく、
「ここまではわかります」
「どうせできません」
ではなく、
「前よりはできます」
「数学ほんと無理です」
ではなく、
「先生、これ前よりわかります」
こういう言葉が増えてきました。
私は、子どもが変わるとき、まず言葉が変わると思っています。
そして、言葉が変わる前に、ノートが変わります。
ノートが変わる前に、取り組み方が変わります。
点数に出るのは、その少し後です。
「数学、ちょっとだけ好きかもしれません」
夏が終わるころ、佐藤がぽつりと言いました。
「先生、俺、数学ちょっとだけ好きかもしれません」
「え、今なんて?」
「いや、ちょっとだけですよ」
「最初、全部無理って言ってた人が?」
「ちょっとだけです」
その“ちょっとだけ”が、私はとてもうれしかったのです。
数学が急に得意になったわけではありません。
何でもスラスラ解けるようになったわけでもありません。
でも、
「無理だと思っていたものに、少し前向きになれた」
これは、点数だけでは測れない大きな成長です。
苦手なものと向き合う。
間違えた問題を直す。
もう一度やる。
できる問題を一つ増やす。
そのくり返しの中で、子どもは少しずつ変わっていきます。
できない問題は、子どもが変わる入口
私は、子どもにできない問題があること自体は、悪いことだと思っていません。
むしろ、できない問題には、その子が伸びるきっかけが隠れています。
ただし、できない問題をそのままにしてしまえば、ただの苦手になります。
でも、
どこで間違えたのかを見る。
もう一度やる。
できるまで直す。
前に間違えたことに、自分で気づく。
そこまでできるようになると、できない問題は、その子が変わる入口になります。
佐藤の変化を見て、私はあらためてそう思いました。
保護者の方へ
保護者の方にとって、子どもが苦手科目でつまずいている姿を見るのは、とてもつらいことだと思います。
勉強してほしい。
でも、本人は自信をなくしている。
声をかけると不機嫌になる。
励ましたいのに、何と言えばいいかわからない。
そのお気持ちは、とてもよくわかります。
苦手な科目がある子は、ただ問題が解けないだけではありません。
「自分には無理」
「どうせやってもできない」
「また間違えるに決まっている」
そう思い込んでしまっていることがあります。
だからこそ、必要なのは、いきなり大きな結果を求めることではありません。
まずは、
「前よりできた」
「もう一回やったらできた」
「次はここに気をつければいい」
という小さな経験を積ませることです。
その小さな積み重ねが、子どもの表情を変えます。
言葉を変えます。
そして、やがて点数にもつながっていきます。
最初から自信満々でなくても大丈夫です。
最初から前向きでなくても大丈夫です。
「無理です」から始まってもいいのです。
そこから一問ずつ直し、少しずつ丸を増やし、
最後に
「ちょっとだけ好きかもしれません」
と言えるところまで来られる子もいます。
できない問題は、その子が変わる入口として、
一つひとつ大事に見ていきたいと思っています。

